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 ヒアリング中、参加者の方々の話から待ち合わせている情景がありありと頭に浮かびましたが、実際に写真を撮るとその場所の空気感や待ち合わせていた時の心情を表すことが難しく、予想以上に時間がかかりました。いつも見ている風景も誰かのフィルターを介すだけで全く違った街並みに感じ、とても不思議な気持ちでした。(学生スタッフ 山田)

 ワークショップ3日目。集まったスタッフの顔から、緊張がやっとほぐれてきたことが伝わってくる。11時から3人、13時から3人、15時から3人のヒアリングが行われた。今日は、前回春秋座で上演された『madogiwa』からの顔見知りが多く、その年齢層も小学3年生から70歳以上の方が参加した、この3日間で最も年齢層の広い1日だった。

 11時のグループGで、ログインはしたものの、なかなかマイクやビデオが機能しない参加者がいた。彼は5分くらい背景を切り替えたり、あちこちボタンを押したりするけど、私たちスタッフや参加者にできることは限られていて、結局彼の様子を見守るしかなかった。彼はそこにいるはずなのに、私たちはなかなか会うことができない。

それはたとえば、待ち合わせ場所で相手を見つけて、名前を呼ぶ。しかしその呼び声は届かずに、人混みにかき消されるようなもどかしさとも似ている。オンラインのツールをあつかいながらも、人との間に生じる距離の味わいには、どこか変わらないものがある。そうして3日目のワークショップは幕を開けた。

 今日、幅広い年齢層の「待ち合わせていた風景」の話をききながら、その風景を思い浮かべていると、学校、映画、近い年齢、男女の付き合い方、同じ名前…参加者の間をつなぐ共通のものがいくつも浮かびあがってきた。そうして3日間立ち会ってきた、一昨日、昨日、今日の「待ち合わせていた風景」は、私の頭の中でゆっくりと重なっていき、さらに根を広げていった。それは、ある人の物語でありながら、頭の中で別の誰かの物語と結ばれたときにはもう、誰か特定の人の物語ではないのかもしれない。しかし、この話の根がおりていく先は物語る参加者たちは知らない、物語をきいていた人にだけが知る話の行方だと思う。

 昨日も体のどこかで感じていたことだけれど、参加者の歴史に耳を澄ませると、今日初めて顔を見た人の歴史にもかかわらずなぜか、どこかで会ったことがあるような親密さを覚える。参加者の物語に登場する人物を、自分の記憶の中に重ねてしまうということも理由のひとつかもしれない。もうひとつは、自分とはちがう経験や記憶をもつ人がいて、それは「他者」なのだと感じること。日々生活していて、「これだけ話をしたのに、この人のことが理解できない」と思う瞬間がなんどもなんどもある。けれど参加者の話をきいていると、これだけ自分とはちがう歴史を歩んできた人なのだから、理解し合うのは到底むずかしいことだと思う一方、二日目のヒアリングで感じた記憶の重なりを思い出すと、それでもどこかで「なんとなくわかる気がする」瞬間があるのだと、ふと思う。

 この3日間、ちがう場所と時代に待ち合わせていた風景を抱える人々が、ヒアリングという待ち合わせ場所を通じて出会った。参加者ではない私にとって、その光景は、舞台上で歩き回る演者のようで、もうこれは上演がはじまっているのではないかと手に汗をにぎっていた。

(学生スタッフ 毛利)

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